子供がいると、思うようにいかないことなど日常茶飯事だ。
それでも、誰のせいでもないとわかっているけれど、
やろうと思ったことができない時
「がっかり」と思うことは、人間だから当然、ある。
ある出来事があった。
ずっと楽しみにしていた友人家族たちとの合同行事に、子供の体調が万全ではなかったので、参加しないことにした。誰のせいでもないことはわかっているからこそ、正直、やり場のないがっかり感が広がり、落ち込んでいた。
いつもならば、仕方ないよねと笑って流すところが、その時だけはそう思えなかった。
その時、そんな話を伝えた仲間の男性から「全て自己責任だと思えないの?」と。
前後の流れから要約すると
「子供を産んだこと、夫のいる海外についていかずワンオペをしていること、寝不足でしんどいこと、自分の時間がないこと、そして行事を欠席するという決断を下したこと。それは全て自分で下した決断でしょ?なぜ愚痴を言うの」
という意味だと思う。100%悪気はなく。
人生のオーナーシップを自分で取る。
誰のせいにもしない。
自分で自分の決断の責任を取る。
全て賛成だ、そう思う。
が、一方で、
母性とは、育児由来の不条理も自己犠牲も全て「自己責任ですから」と微笑んで受け止めるもの
というラベルがもし世間にあるのだとしたら
これほど、母親を追い込むものはないのではないか、とも。
子供を産んだのも育てる(私の場合は、ワンオペになる)と決めたのも自分。「だから我慢しなさいよ。愚痴なんて言っちゃダメ。」
が、人生のオーナーシップを持ち、覚悟ある人生。あるいは母性。なのだとしたら
私は、そういう「隙のない`100%自分原因説`」みたいなものは、きっと向いていない。
育児と自己実現との狭間でモヤモヤすることがあった時は
これもあなたの選択!と正論は脇に置きたい。
もう少し泥臭く、
「頭ではわかってるんだけど、でも辛い眠い」と言いたいし
「わかるわかる、大変だったね、頑張ってるよね」
「あなたのせいじゃないよ、きっとお天道様のせいだ!」
「まあ、そんなときはラーメンかアイスでも食べようよ」
とか
「真正面」ではない適当なことを言い合えるような、そんなゆるさで
弱さも揺らぎも許容して生きていきたい。
そうやって、そのゆるさの中で、
また自分を立て直し、癒しなおし、現実的には、日々のやるべきことを淡々とやる人でいたい。
何が「凛とした人」なのか「人生のオーナーシップ」なのかはよくわからないけれど
私はこんな自分らしさで、いいやと思った。
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